あぶく、大きくなる、あぶく

海底から苦しまぎれに吐かれたあぶく。

 

とあるビジネス系のアカウントさんが、このツイートをRTしていたのを見かけた。

 

まず最初に、俺は堀江貴文という人のことを好きではないし、よく知らないし、たいして知りたいとも思っていない。つまり彼に理解がない人間だということを明示しておく。

 

このツイートの文章は、『夢をかなえる「打ち出の小槌」』という本の、どうやら目次の見出しであるらしい。(参照:夢をかなえる「打ち出の小槌」、の第2章の箇所)。このページには上のツイートと同じく、不安について記述されている。

 

若い人でも、将来への不安から貯金に走る人は多い。しかし、『夢をかなえる「打ち出の小槌」』の中で、堀江氏はどうして貯金をするのか、と疑問を投げかける。「お金を貯めることが楽しい」という人はそれでよい。しかし、不安だから貯金をしている人はそもそもなぜ将来に不安を抱くのか。「将来が不安でたまらない」と考えることにどんなメリットがあるのだろうか。
 堀江氏は「不安というのは、考えた時点で負けだと思っている」と同書でつづっている。不安から冷静に判断できなくなってしまった人の多くは、生活を犠牲にして、やりたいこともやらずにコツコツと将来に備えをしてしまう。そうした不安に付け込んで必要以上に保険をかけたり、蓄えにまわすことを勧めてくる人もいる。

 

不安そのものというより、不安が原因となった貯蓄に対する批判。実際のところ、日本人には貯蓄に走る傾向が強いというのは、前々から言われてはいるもんだしね。

ここではあえて、『「不安というのは、考えた時点で負けだと思っている」という文自体が不安について考えて言及している証』というのを掘り下げるのは避けておく(本に書くため、という反論は容易に想像がつく)。「不安から冷静に判断できなくなってしまった人の多くは、生活を犠牲にして、やりたいこともやらずにコツコツと将来に備えをしてしまう」。なるほど、これも納得できるものではある。とはいえこれも、「不況だから」という一言で封殺されかねないものではあるが。

 

そして続く文章が以下。

でも、貯金がいくらあっても不安は完全にはぬぐえない。そういった不安から抜け出すためには、自分を忙しくするしかない。
 若いうちだからこそ、失敗してゼロになってもやり直せるものだ。もし、お金がなくなってしまったら、誰かに助けてもらえばいい。自分が信用されていればお金を借りることができるはずだ。もしできないなら、家族、親戚、友人、誰からも信用されていないということになるのではないだろうか。そんな風に堀江氏は『夢をかなえる「打ち出の小槌」』で訴えているのだ。

 

 ここが妙だ。

貯金が増えても完全に不安が消えないのはわかる。いくら稼いでも金銭欲が衰えないのにも似て、いくら稼いでも失職や盗まれることや、果ては日本円の価値が下がることを懸念してたらきりがない。

でも「不安から抜け出すためには、自分を忙しくするしかない」。この文、意味がわからない。昔から「貧乏暇なし」というし(あれは謙遜らしいけど)、忙しいことと不安とは、密接な関係性があるようには思えない。

いや、関係性が皆無なのではないのはわかる。忙しければ、ものごとを考える余裕すらなくなるから、不安に感じている隙がなくなる、ということであれば。ただそれは、不安に対する対症療法であって、原因療法ではない。某大衆居酒屋のように自殺するほどの忙しさなら、不安も掻き消えるかもしれない。でもだったら休みを貰って考える余暇ができてしまえば、そのときはまた不安におびえるしかないんじゃないか? いずれにせよ忙しくなって不安でなくなる、というのは、遠い間接的な理由にすぎないように思う。

上の引用の2段めも不思議なもんだよ。「お金がなくなって、誰も助けてくれなかったら、それは君が信用されてない証だよ」。うん、そうですね。でも不安とは関係ないですよね。「不安を完全に忘れるために忙しくなっても、”金がなくなる”ことはある」と逆に不安が助長されかねないことを認めてしまっているし、もっといえば不安を完全に忘れるために忙しくなったとしても、金がなくなって誰も助けてくれないという絶望的な状況は大いに考えられる。

 

とはいえ上記のページは、本の購読を促すものであってすべてを記述してあるものではない。場合によっては読めばわかるのかもしれないが、惜しむらくはその気が俺にないことである。

この本は、おそらく啓蒙本に分類されるものだろう。「金の本質」について書かれているものなら「ユダヤ人大富豪の教え」を読んだことがあるし、自信について書かれているものなら苫米地英人大先生の書籍も何冊か読んだことがある。恥をしのんでいえば、雀鬼・桜井章一の本を気がめいってるときに読んで、実際に下北まで行ったこともある(しかも俺はまともに麻雀できない。結局「牌の音」とやらには入らなかったが)。こうして啓蒙本を読んできたなかで俺は、「自分は金の人間ではなかったんだ」という結論に落ち着いた。金の人間でない人は、仕事に精神をすべてもっていかれないようにしないといけないし、だから啓蒙本にも骨抜きにされちゃ拙い、と。

 そういう意味では、上のページにある

私よりもみんなのほうがよっぽど拝金主義だ。それなのにお金の本質が理解できていないから、いつまでも豊かな生活が送れないのだ。

 という見出しは、ズレて感じられる。その「みんな」のすべてが「金の本質を理解していないから」ではない。「金の優先順位が低いから」という人が少なからずいる、ということに言及できないと厳しい(とはいえ啓蒙本で金に疑いをはさむよう促すなんて考えられんけど)。

ちなみに「愛で飯は食えない」という諺語にならえば、「飯は金で買うしかない」ということだ。昔なら自分で作物つくるなり狩猟するなりしただろうけど、今の日本人にそんな能力がある人は多くない。だから、金に頼るしかない。たとえ金の人でなくても。

 

こういう啓蒙本にがっかりする点があるとすれば、それは「前を向け。上を見ろ」としか語らないあたりじゃないかな。ここでの不安というのは、「金がない不安」という表面的なものではなく、「飢えて家もなくして道に倒れる恐怖」だろうと思う。あんまり「金から逃げる方法」を教えてくれる人いないんだよね。

“しかし、ネットでの適切な文章というのは、どういうものなのか、けっこう悩ましいものなのですよ。 書きすぎれば「長すぎてこんなの誰も読まない」と言われ、 短いと「手抜きだ、雑だ。誰にでも書ける」と罵られ、 たとえ話をすると「たとえが不適切」と責められ、 具体的な例をあげると「一例にしかすぎない」となじられ、 抽象的な話に終始すると「それお前の脳内ソース」と嘲られ、 誰かを褒めると「ステマ、信者乙」と叩かれ、 誰かをけなすと「それが好きな人もいるのに、想像力が足りない」と呆れられ、 自分の話をすると「チラシの裏に書け」と薦められ、 他者の話をすると「偉そうに言っているお前自身はどうなんだ」と攻撃され、 悲しみや苦しみを訴えると「自業自得」と切り返され、 嬉しかったことを語ると「もげろ!」とからかわれる。”

http://monocarky.tumblr.com/post/71519028127

 

こたびはブロマガから流れてきたポスト。

 

 

「適切な文章」とはなにか?

以前どこぞで「言語学的には正しい表現などない」といった旨のものを見たことがあったので、ちょいとググる

 

 

そもそも言語は誰もがまったく同じ言葉をしゃべっているわけではない。したがって、日本語はこうでなければならない、という唯一絶対の基準を設けることは、本来無意味なことと言わざるを得ない。

 

 「正しい日本語」って、なーに?(『本当にわかる言語学』を読んで) - ぐるりみち。

 

「こうでなければならない」 というものは、おおよそない。

そういうことであれば、適切な文章ってのは「正しい表現」ではなく、「場に合わせて正しくあらわされた表現」であったり、「筆者の意図どおりに正しく人をおびきよせる表現」だとかになるんじゃないかな。

 

このブロマガでは「文の長さ」「比喩・具体抽象」「毀誉褒貶」「彼我」「感情(喜怒哀楽)」を基準に読者からの想定しうる反応を列挙してあるが、これってかなり無理があると思う。想定している内容やその信憑性についてではなく、「瑣末な反応にまで手を伸ばしてる」ということに。

 

俺は太宰の文章が好きなのだが、太宰は好き嫌いの分かれるところだし歯牙にもかけない人がいて当然。太宰でなくとも、芥川であったとしても嫌いという感情だけでなく、批判があってもしかるべきだろうさ。

もし上のような列挙された反応をことごとく淘汰したいのなら、芥川以上の文章を書いてもまだ叶うかどうか。

本当にネガティブ(否定的)な反応を淘汰したいのなら、「神のごとき完全無欠の文筆家能力」を得るか、「書かないか」ぐらいしかない、おそらく。そして神はブロマガなんてやらない、こちらもおそらく。

 

とはいえ当のブロマガの記事ではこう続く。

こちらからすれば「ビジネス本じゃないし、読むのも無料なのだから(イヤなら読まない、というお互いにとって最良の選択肢もあります)、だらだら書くくらいの贅沢はさせてほしい」とか考えてみたりもするわけです。

 

実際のところ俺はポストが流れてこなければ目にすることはなかっただろうし、今後見ていこうという気もない。あちらもこちらのことなんて知らないだろうし、知っても同じようなもんだろう。

マラソンの高橋尚子さんが民主党からの出馬要請を辞退。「政治を勉強した人が国民の代表になる べき。国民栄誉賞の受賞者が特定の党の代表になる訳にはいかない」とのこと。タワラちゃんこと谷亮子さんへの痛烈な批判であり、至極真っ当な見識だと思 う。惚れたよ、Qちゃん。

http://monocarky.tumblr.com/post/71518297812

 

またもやとあるツイートから。

 

こういう賞賛にしろ、発言者に帰属されないというのは妙なものだね。

賞賛が当人に帰属されないということは、批判も帰属されない可能性がある。

 

ちなみにこちらのlivedoorニュースを参照してみると、2010年5月12日付のニッカンで出馬拒否のニュースが出ていたことになる。

上のツイートには「いつ」が書かれていないので、あたかも「つい最近」辞退したように見える。もちろん「最近」というのが「数年前まで」を含めて考える人もいるだろうけどさ。

 

どうやらQちゃん当人はツイッターやってないみたいだから、「帰属させにくい」というのもあるんだろうけどね。

「絵は嘘の世界だから人体とか勉強しなくてもカッコいい嘘つければ良いでしょ、あ、勉強する気はあるんだけどね。」 と言ってる人が居て驚いた、「嘘」は「真」を知ってるからこそつけるもので、知らずにつく嘘は「無知の露呈」って言うと思う。

(http://monocarky.tumblr.com/post/71363732757)

 

Twitter via tumblr

これが正しいのかどうかはわからん。それは別として、よぎるものがあった。

 

 

 

今の幾人かのクリエイターを俺なりに外から見るに、嘘か真実か、はたまた無知かどうかなどどうでもいいのだと思う。曰く、「楽しければそれでよし」と。

上のツイートになぞらえるなら、それは無知の露呈ではあるのだけど、所詮そんなものは外から野次ってる言葉であるわけで、当人たちは楽しいのでそれでいい、ということで。

それはいわば、「夢のなかをふわふわと漂う」ようなもので、ひどく心地いい。大抵の人もその心地よさを知ってはいるものの、「これは夢だ。このままじゃいけない」と思うようになる。しかしそう思わないでいられる人もいる、と。

 

もっといえば、そういう作者はプロにもアマにもいるだろうし、そういう客をターゲットにして創作しているという作者もいるだろうし。

基本的にラノベがこれに該当して、嘘でも真実でも無知でもなんでもいい、おもしろければ、売れれば、というようなものだと俺は認識している。

 

 

 

別に俺の近くにそこまで快楽主義的な人はいないので、これはただの雑感にすぎない。

とはいえ、外からばかりではなんにもならないので、やっぱり内からの声が聞こえない分にはどうしようもないやね。

火を守ること

“伝統とは火を守ることであり、灰を崇拝することではない”
— グスタフ・マーラー (via maako)


(http://monocarky.tumblr.com/post/70969444808)

 

 

火は消えやすい。再びつけることの叶わない火を守る愚かさ。

 

火というのは、比喩として多く使われる。人間の衝動や情動というのも火や炎によく例えられるのは、「情熱」という言葉ひとつでよくわかる。

その火が聖火ランナーのように、絶えず火を次へ次へと継いでいくというのであれば、過去の遺物である灰を崇拝するのも愚かしいことではあるが、絶えず前へ火を送らねばならないというのも人の業である。