あぶく、大きくなる、あぶく

海底から苦しまぎれに吐かれたあぶく。

“しかし、ネットでの適切な文章というのは、どういうものなのか、けっこう悩ましいものなのですよ。 書きすぎれば「長すぎてこんなの誰も読まない」と言われ、 短いと「手抜きだ、雑だ。誰にでも書ける」と罵られ、 たとえ話をすると「たとえが不適切」と責められ、 具体的な例をあげると「一例にしかすぎない」となじられ、 抽象的な話に終始すると「それお前の脳内ソース」と嘲られ、 誰かを褒めると「ステマ、信者乙」と叩かれ、 誰かをけなすと「それが好きな人もいるのに、想像力が足りない」と呆れられ、 自分の話をすると「チラシの裏に書け」と薦められ、 他者の話をすると「偉そうに言っているお前自身はどうなんだ」と攻撃され、 悲しみや苦しみを訴えると「自業自得」と切り返され、 嬉しかったことを語ると「もげろ!」とからかわれる。”

http://monocarky.tumblr.com/post/71519028127

 

こたびはブロマガから流れてきたポスト。

 

 

「適切な文章」とはなにか?

以前どこぞで「言語学的には正しい表現などない」といった旨のものを見たことがあったので、ちょいとググる

 

 

そもそも言語は誰もがまったく同じ言葉をしゃべっているわけではない。したがって、日本語はこうでなければならない、という唯一絶対の基準を設けることは、本来無意味なことと言わざるを得ない。

 

 「正しい日本語」って、なーに?(『本当にわかる言語学』を読んで) - ぐるりみち。

 

「こうでなければならない」 というものは、おおよそない。

そういうことであれば、適切な文章ってのは「正しい表現」ではなく、「場に合わせて正しくあらわされた表現」であったり、「筆者の意図どおりに正しく人をおびきよせる表現」だとかになるんじゃないかな。

 

このブロマガでは「文の長さ」「比喩・具体抽象」「毀誉褒貶」「彼我」「感情(喜怒哀楽)」を基準に読者からの想定しうる反応を列挙してあるが、これってかなり無理があると思う。想定している内容やその信憑性についてではなく、「瑣末な反応にまで手を伸ばしてる」ということに。

 

俺は太宰の文章が好きなのだが、太宰は好き嫌いの分かれるところだし歯牙にもかけない人がいて当然。太宰でなくとも、芥川であったとしても嫌いという感情だけでなく、批判があってもしかるべきだろうさ。

もし上のような列挙された反応をことごとく淘汰したいのなら、芥川以上の文章を書いてもまだ叶うかどうか。

本当にネガティブ(否定的)な反応を淘汰したいのなら、「神のごとき完全無欠の文筆家能力」を得るか、「書かないか」ぐらいしかない、おそらく。そして神はブロマガなんてやらない、こちらもおそらく。

 

とはいえ当のブロマガの記事ではこう続く。

こちらからすれば「ビジネス本じゃないし、読むのも無料なのだから(イヤなら読まない、というお互いにとって最良の選択肢もあります)、だらだら書くくらいの贅沢はさせてほしい」とか考えてみたりもするわけです。

 

実際のところ俺はポストが流れてこなければ目にすることはなかっただろうし、今後見ていこうという気もない。あちらもこちらのことなんて知らないだろうし、知っても同じようなもんだろう。